教えるという事と育てるという事
教えるだけなら、習ってる人の個性とか能力とか関係なしに
決まったカリキュラムをこなしていけば、教える事は教えた
と自己満足出来る
しかし、教える側の自己満足と習ってる側の満足は反比例しやすい
習ってる側が、引っ掛かって迷ってるのに、自己満足的に先に進めてしまう部分があるからである
引っ掛かったままになっていれば、落ちこぼれる
落ちこぼれたのを勉強しないからだと一方的に言えるのか?
導いていないから、理解出来ないのかと考えられないのか?
かといって、引っ掛かってる人にだけ関わっていたら
引っ掛かっていない人に影響が出る
だから、妥協点をみつけて先に進める
教える事のノルマを達成する為にも、それは仕方の無い事であるし、組織の中で教えているとそれは当然の事になる
僕がアットホームという言葉に引かれるのは、育てたいからである
育てる・・・それには、相手を理解して、相手に最適なアドバイス、導きをして教えていける事だと思うからである
しかし、相手の事がわからないままだと導きも一般的になってしまう
相手を理解するには、コミニュケーションが大切
だから、僕は、なんでも話す、世間話から、くだらない思いつきや変な事、そうやって自分を開き、相手が開くのを待つ
コミニュケーションにも個性がある
それを見極めるのは、経験値
ありがたい事に、教育現場で30年の経験が
この経験値をあげてくれてる
30年という年数は、少なくとも6000人以上の学生と関わって
いると言う事、6000の個性と接していると言う事
その経験値でケースバイケースで個人を知る
そして、アットホームなコミニュケーションで
お互いに言いたい事を言いながら、質問したり、深く掘り下げたりして、その人に合った導きをしていける
教えてる事なんて、世の中のほんの狭い範囲
人それぞれにそれぞれの範囲があり
ひょっとしたら、僕の知らない範囲は、僕が教えてもらってるのだと思う
教えながらも、相手から学ぶ事が多いところに
相手を理解し認めている事の現れだと思ってる
でも、そういう事は、立場を越えないとわからない
立場を越えて、人と人としてアットホームな信頼関係の上で
学んでいく環境こそが、育てる事に繋がると思う
教える事と育てることが、両立すると「教育」になる
教育は、強い絆になる
そんな事を思った今日でした。
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